note:Words in the World

言葉 思考の断片 伝えたい、言葉
<< April 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
<< 臆病 | main | View >>

雨夜の話

0
     その日は雨が降っていた。
     晴れた昼間はもう半袖でもいいような、それでも雨が降ればやはりまだ肌寒い、そんな陽気の頃。
     男は、滅多に見せることのない嬉しそうな微笑を浮かべていた。

     

     


     男は50代の半ばらしかったが、誰も正確な年齢は知らなかった。
     上背はあるが、痩せぎすで、ペラペラの黒いナイロンコートを着た姿は、まるで板切れに布を引っ掛けたようだった。削げた頬には縦皺が幾筋も刻まれ、どんよりとした瞳と相俟って、男を年齢不詳に仕立てていた。
     裏通りの、小さなカウンターバーにはよく顔を見せていた。10人ちょっとも座ればいっぱいになる狭い店で、客はほとんど常連だったが、男は特定の誰かと仲良くなることもなく、店の片隅の方に座って、呑み、語る人々を眺めていた。
     無口で人嫌いで些か頑固で、それでも寂しがり屋な面もあることは、たいがいの人がすぐに理解した。
     個人的なことに立ち入らなければ、聞かれたことに一応の返事はしたし、気分が良ければ子供の頃の思い出話くらいはしないこともなかった。時には詩を口遊むことすらあった。
     ただ、そうしたときは決まって後で「喋りすぎた」と自己嫌悪を感じたようにむっつりと黙り込んでしまった。
     ポンと薄い肩を叩くと、恥じらったような微笑を見せるから、そのまま放って置かれることもなく、結局、いつも誰かが男に話しかけていた。

     二度結婚して、二度とも離婚した。
     子供はいない。
     既に父母もなく、兄弟もいない。
     だが男は天涯孤独という言葉を使わなかった。
     その店では誰もが男を知っていたが、誰も、それ以上のことは知らなかった。

     

     

     男には女がいた。
     親子ほどではないが、年の離れた女だ。籍こそ入れていないものの、居は共にしていた。
     互いに何を話すでもなく、ただ連れ立って歩く姿を見かけたものもあったらしい。
     だが、男は馴染みのそのバーに女を連れてくることはなかったし、男が帰らない夜もあった。
     女も冷めた性質なのか、それを気にすることもなく、男の好きに任せ、また自分も好きに振舞っていた。時に、男が身を寄せて来ると、文句も言わずそれを受け止めた。
     男にとって都合のいい女という言い方も出来るが、2人にしか分からない情の通わせ方もあったのだろう。

     

     

     その男の魂の抜け殻を、女はじっと見つめていた。泣きもせず、取り乱しもせず、ただ、不思議なものを見るように見つめていた。
     男の素性を聞かれた時、女ははじめてはっと目を見開き、ゆっくりと首を振った。
     幾年かを共に過ごした女にすら、男は何も言いはしなかった。部屋に残された男の持ち物は、女が買い与えたもの以外は、古びた銀無垢のジッポと、K.Sの縫い取りのあるソフト帽だけだった。それを被った姿を見たものはいないが。
     男が死んだ時にも身に着けていたナイロンコートにも同じK.Sの縫い取りがあり、それが男のイニシャルだろうと知れた。
     人はそれを手掛かりに身元の調査をすると言ったが、女はそれを拒み、男を無縁仏として葬るよう望んだ。

     

     

     男の過去の何がそこまでさせたのかは知らないが、己を知られることを一切拒み続けた男への、女の最後の手向けだった。

     

     

     

     何も為さず、何も残さず死んだ。

     

     

     

     男は、口元に微笑を浮かべていた。

     女はそれを不思議そうに見つめていた。

     肌寒い雨の夜だった。

    掌編小説 | permalink | comments(0) | trackbacks(0) | - | -

    この記事に対するコメント

    コメントする









    この記事のトラックバックURL
    http://note.honeybee.pepper.jp/trackback/527451
    この記事に対するトラックバック